戦中戦後に小学生だった私たちの世代は、本に飢えていた。もののない頃で、新しい本の出版は少なく、本屋の店先には粗悪な紙の薄っぺらな本しか並ばない時期が続いた。母親が昔読んだという小学生全集を実家から借りて来てむさぼり読んだ。また友達からも借りあさって読んだものである。そんな1冊だったと思うのだが、奇妙に印象に残る話を読んだ。
ある国でのこと、医術を学んだことのある男が奇妙な依頼を受ける。「私は外国から妹とこの国へやってきたが、妹は病を得て死んでしまった。国の習慣として、遺体を運ぶことができないなら首を持って帰らねばならない。私には愛しい妹の首は到底切り落とせない。あなたは医学を学んだ方と聞く。どうか切ってください」依頼を受けて、その娘の首を切り落とす時、娘はカッと大きな目を見開く。死んではいなかったのである。その男は殺人犯として逮捕され裁判にかけられる。弁護人の働きで死刑は免れ、左手切断・財産没収の上永久追放となった。
その本は、表紙どころか目次など最初の数ペ−ジが欠落しており、本の題名・著者名を確かめるすべはなかった。もっとも、小学校3、4年であった私は、欠落がなかったとしてもお話の中味だけに気を取られて、著者が誰かを気にとめることはなかっただろう。それから
20 年ほど経った頃、ふとこの話が気になり出した。はっきりしているのは日本の話ではないことで、どこの国のお話かもわからない。大きな書店の児童用書籍・民話などの書棚の前に立って、各国の童話などを拾い読みして探しつづけた。そんな探索の日々の数年後、苦労の甲斐あってその物語にめぐり合うことが出来た。ドイツの作家ハウフの「隊商」であった。ドイツの友人によると
20 世紀の中ごろまでは「どの家にもハウフ童話の本がある」と言っても過言でないほど、親しまれた存在であったようだ。
1826 年に出版された「隊商(Die Karavane)」は、砂漠を旅している商人が休憩地で休むごとに交代で語る物語から構成されている。
(1)コウノトリになったカリフの話(2)幽霊船の話(3)切り取られた手の話(4)ファトメの救い出し(5)小さいムクの話(6)偽りの王子のおとぎ話
この第3話が本稿の冒頭で述べた物語である。そのあらすじを記しておこう。
切り取られた手の話 一あらすじ
ギリシャ人である私ツァロイコスは、コンスタンチノ一ブル(トルコの首都)で生まれた。父は香水、衣料の店を開いており、私をパリに送り医学を学ばせた。3年後に外科医となって帰ってみると、父は2ヶ月前に亡くなっており、残しておいてくれたはずの巨額の財産もなくなっていた。店を売り払い、香油・ショール・絹を買い入れフランスの各地を回って商売をした。元手を作ってからイタリアへ行った。フイレンチェが気に入り、しばらく滞在した。サン夕・クローチェという町に店を借り、医者と小売商を開いたところ大繁盛だった。開店間もない日の深夜、ボンテ・ヴェツキオ橋の袂まで呼び出された。行ってみると、まっかなマントを着た男が私に頼みがあるという。「妹と二人で遠い国からやってきた。妹が急病で死んでしまった。首を持って帰って祖先の墓に葬らねばならぬ。あなたは医師だから首を切ってほしい」という。男が案内した大きな屋敷の一室の寝台に美しい女が横たわっていた。医者としていつも持っていたメスを取り出して、一気にのどをかき切ったところ、死者はぱっちりと目を開け、次の瞬間目を閉じて本当に死んでしまった。私はこの女を殺してしまったのだ。……
部屋に残したメスから足がつき、私は逮捕された。私が殺した娘は、結婚式を翌日に控えた総督令嬢ビアンカだった。事情を説明したが誰も信じてくれず死刑が宣告された。しかし、パリ時代の友人が救ってくれた。フイレンチェの古い書物を調べたところ、昔同じような事件があり「その者の左手を切り、財産を没収し、フイレンチェから永久追放した」とあった。そこで私も死一等を減ぜられ、片手を切り落とされて釈放された。
故郷のコンスタンチノープルへ帰ってみると、立派な家が用意され、店と商品までもが備わっていた。毎年、多額の金も送られてくる。私をひどい目にあわせたあの男の償いのつもりだろう。
やがて旅を終えて隊商が解散するとき、ツァイコロスに娘の首を切ることを依頼したのは旅の途中から一行に加わった男であったことが判り、その事情が説明される。
ハウフの生涯
ウイルヘルム・ハウフ(Wilhelm Hauff, 以下WHと略記)は
1802年11月29 日、シュツットガルト(ドイツ南西部の都市)に生まれた。7歳のとき父親(内閣秘書官だった)が病死し、母、兄、2人の妹とともに母親の実家で暮らすことになった。母方の祖父はチュービンゲン市の高等法院判事で、膨大な蔵書を持つ文学愛好家であった。WHはその書庫からゲーテ、シラーをはじめイギリスやドイツの長編小説など世界の名作を持ち出して耽読した。WHは12、3歳のころから妹や友達に自分の作った話を聞かせるのを好んだという。
母親は彼が15歳になったとき、牧師にするつもりで神学校に入れた。これは父のない子が官費で学問を修めることのできる唯一の道であった。そこで自由のない息苦しい日々をすごした後、チュービンゲン大学神学部へ進んだ。この学部の先輩にはヘーゲル、ヘルダーリン、メーリケなどそうそうたる文人、哲人がいたが、WHはこの学問になじむことはできなかった。しかし、神学校での規則正しい生活で体が丈夫になったのを幸い、友人たちと徒歩旅行を楽しむなど学生生活を満喫した。
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(写真は、ハウフとその作品“リヒテンシュタイン城”、“小人のムクの話”を描いた切手)
1824年10 月、学士号を得てヒューゲル男爵家の家庭教師になった。男爵は夫人とともにWHを親切に遇し、創作活動にも理解を示したので、かねてから構想を暖めていた童話を書き進めることができた。創作童話を男爵家の2人の息子に話して聞かせると、聞き手に加わっていた夫人が本として出版することを熱心に勧めた。そのようにして出来上がったのが「隊商」で、「
1826 年のメルヒェン年鑑」として
1825年10 月に刊行され、続いて
27 年度、
28 年度版が出された。これらは後に増補され、「教養ある階級の子女のための御伽噺」としてまとめられた。これらは以下の3篇でいずれも「枠物語(下記注)」の形式で数個の物語から構成されている。
(1)「隊商 (1826)」
(2)「アレッサンドリアの酋長とその奴隷たち (1827)」
(3)「シュペサルトの料理店(1828)」
注: 導入的な物語を「枠」として使うことによって、ばらばらの短編群を繋ぐ物語技法。
「額縁小説」とも呼ばれる。「千一夜物語」はその典型例である。
1827年 2月、3年前から婚約していた従妹のルイーゼと結婚し、美しい庭付きの一戸を構え、
24 歳の若さで名声と安定した家庭を手に入れた。前年の旅行で訪れたブレーメンを舞台とした“ぶどう酒綺譚”などの短編を矢継ぎ早に発表した。ところが、急に体の変調をきたして床につき、長女の誕生の1週間後の
1827年11月18 日、享年わずか
25 歳で帰らぬ人となった。
ハウフゆかりの場所を訪ねる
シュトゥトガルト
1984年5月8 日から約6週間、ヨーロッパの研究機関を訪問した(イタリア、スイス、ドイツ)。ドイツではシュトゥトガルトとミュンヘンに滞在した。シュトゥトガルト市内にはハウフにゆかりの場所がいくつかある。
市の中心部にある
Hoppenjan Friedhof (ホッペンラウ霊園、コンサートホール
Liederhalle の近く)にハウフの墓がある。竪琴を模した墓標は文人・詩人の墓に多い。 墓地から南西方向 約2km離れた地点
Hasenbergsteige の小さな公園にハウフの胸像がある。
フィレンツェ ポンテ・ヴェッキオ
ところで、「隊商」の第3話“切り取られた手の話”の事件は、ポンテ・ヴェッキオ( Ponte は橋、 Vecchio は古いという意味)での赤いマントを着た男との出会いから始まる。 1993年 9月、イタリアで開かれた国際会議に出かけた機会にフィレンツェに立ち寄ってこの橋を歩いてみた(写真右)。
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アルノ川に架かるこの橋は河川の氾濫などで何度かかけ直されており、現在の橋は
1345 年に再建されたもの。橋の両側には店が並んでおり観光客でにぎわっているので、ぼんやり歩いていると、橋の上にいることに気が付かない。ヨーロッパにはかつて多くあったという家付き橋である。当初は肉屋やなめし革職人の店などがあったそうだが
16 世紀末(
1593 年?)に、フェルディナンド1世が、肉屋などを放逐して金銀細工の店に変えてしまったとか。また家の上に重なるように連なるのは、「ヴァザーリの回廊」と呼ぶ廊下で、北側のヴェッキオ宮からウフィツィ美術館を経て、南側のピッティ宮殿まで続いている。橋の中央部だけは家並みが途切れてちょっとした広場になっており、川の眺望が楽しめる。
ハウフの話中の人物 ツァロイコスが深夜
12 時にポンテ・ヴェッキオにでかけたときは“人通りは途絶え、月がこうこうと照らす寒い夜であった”という設定であるが、それとはうらはらのにぎやかな雰囲気の場所であった。時代、季節、時間帯が違うせいかもしれない。しかし、“ほとんど生地の周辺を離れたことがなかった”というハウフは、フィレンチェを訪れこの橋に立つ機会もないままに、この物語を書いたのではないだろうか? そんな疑問が心をよぎった。